向島の歴史地理
更新日:2019年2月7日
向島の歴史
墨田中学校の周辺は、近世以降に多くの文人が住み、活躍をしました。
森鴎外住居跡
森鴎外は石見国から上京すると向島に住みました。
森鴎外住居跡
所在地 向島三丁目三十七番三十八番
文久二年(一八六二)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外(本名林太郎)は、明治五年(一八七二)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村八七番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族とともに三年後には小梅村二三七番にあった三百坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺きの家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鴎外が毛筆で写生したという庭は笠松や梅、楓などが植えられた情緒的で凝った作りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました。
父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二ヶ月後には西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島の依田学海(よだがっかい)邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士(ひきふねこじ)」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は身近いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられていたようです。
平成二十六年二月 墨田区教育委員会
明治時代の向島
明治初期の向島について、森鴎外の妹にあたる小金井喜美子の作品を読むとよく分かる。
「初めに住みつるは、向島なる牛の御前を真直ぐに行き、秋葉の社の方へ曲がる道のべにて、旧藩主亀井氏の広き邸宅に近き家を択び給ひしが、程なく父君の好みに由りて、小梅村の奥まりて隠宅めきたるに移りぬ。三百坪の地に茅葺の五間ばかりの家、茶がかりしやうの普請なり。」小金井喜美子著『不忘記』より(『森鴎外の系族』岩波文庫)
「藤子が向島に住んでいたのは、四つから九つまでの五年間であった。初めて通った学校は牛島小学校といって、竹屋の渡しを上がった土手の下あたりかと覚えている。家は小梅村なので、田圃を通って牛の御前の通を行って、曲がってからの土手下がかなりあった。それを行くのを遠いともつらいとも思わなかった。」「少し不便ではあるが、庭が好いからというので、お父う様がお買いになった邸なので、家は藁葺きで小さいが、庭はなかなか広かった。その庭には一面の苔がついていて、雨上りなどの美しい事、素足で歩きたいようであった。正面には向島で何番目の大木だとかいう笠松が枝を垂れていて、その下には古びてよく苔の付いた雪見燈籠が据えてあった。」「木戸を開けば、向こうは曳舟通りまで、それでお兄い様がその頃お書きになるものに、牽舟居士と署名なすったようである。」「「お母あ様、犬が」と藤子は叫んだ。普通の犬の顔と少し違うように見えたからである。お母あ様が障子を開けて、「あ狐が」といっしゃって、たってこっちへいらっしゃる。その獣はつと逃げて行った。それぐらいに寂しい処であった。夜中に裏の田圃で啼くのを聞いた狐であったと見える。」小金井喜美子著『向島の家』より(『森鴎外の系族』岩波文庫)
墨堤の桜に関する沿革
永井荷風の随筆「向島」(昭和2年)に隅田川の堤の桜の沿革が紹介されている。
「堤上桜花の沿革については今なお言問の丘に建っている植桜之碑を見ればこれを審(つまびらか)にすることができる。碑文の撰者浜村蔵六の言う所に従えば幕府が始(はじめ)て隅田堤に桜樹を植えさせたのは享保二年である。ついで享保十一年に再び桜桃柳百五十株を植えさせたが、その場所は梅若塚に近いあたりの堤に限られていたというので、今日の言問や三囲の堤には桜はなかったわけである。文化年間に至って百花園の創業者佐原菊烏(さわらきくう)(土偏に烏)が八重桜百五十本を白髭神社の南北に植えた。それから凡(およそ)三十年を経て天保二年に隅田村の庄屋阪田氏が二百本ほどの桜を寺島須崎小梅村の堤に植えた。弘化三年七月洪水のため桜樹の害せられたものが多かったので、須崎村の植木師宇田川総兵衛なる者が独力で百五十株ほどを長命寺の堤上に植つけた。それから安政元年に至って更に二百株を補植した。ここにおいて隅田堤の桜花は始て木母寺の辺より三囲堤に至るまで連続することになったという。」(野口冨士雄編『荷風随筆集』より『向嶋』岩波文庫)
明治の文人が向島に集まる
明治に向島へ移り住んだ文人について、永井荷風が随筆で書いている。
「明治年間向島の地を愛してここに林泉を経営し邸宅を築造した者は少なくない。思出(おもいいず)るがままにわたくしの知るものを挙れば、華族には榎本梁川(えのもとりょうせん)がある。学者には依田学海(よだがっかい)、成島柳北がある。詩人には伊藤聴秋(いとうていしゅう)、瓜生梅村(うりゅうばいそん)、関根癡堂(せきねもどう)がある。書家には西川春洞(にしかわしゅんとう)、篆刻家には浜村大解(はまむらたいかい)、画家には小林永濯(こばやしえいたく)がある。俳諧師には基角堂永機、小説家には饗庭篁村(あえばこうそん)、幸田露伴、好事家には淡島寒月がある。皆一時の名士である。しかし明治四十三年八月初旬の水害以後永くその旧居に留まったものは幸田淡島基角堂の三家のみで、その他はこれより先既に世を去ったものが多かった。」(野口冨士雄編『荷風随筆集』より『向嶋』岩波文庫)
昭和11年のバスの車窓から見る向嶋
「車は吾妻橋をわたって、広い新道路を、向嶋行の電車と前後して北へ曲り、源森橋(げんもりばし)をわたる。両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしならば小梅あたりを行くのだろうと行くのだろうと思っている中(うち)、車掌が次は須崎町、お降りは御在ませんかといった。降りる人も、乗る人もない。車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折ると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である。下駄の音と、女の声が聞える。
車掌が弘福寺前と呼んだ時、妾風の大丸髷とコートの男とが連立って降りた。わたくしは新築せられた弘福禅寺の堂宇を見ようとしたが、外は暗く、唯低い樹の茂りが見えるばかり。やがて公園の入口らしい処へ駐(とま)って、車は川の見える堤へ上った。堤はどの辺かと思う時、車掌が大倉別邸前といったので、長命寺はとうに過ぎて、むかしならば須崎村の柳畠(やなぎばたけ)を見おろすあたりである事がわかった。しかし柳畠にはもう別荘らしい門構えもなく、また堤には一本の桜もない。両側に立ち続く小家は、堤の上に板橋をかけわたし、日満食堂などと書いた納簾(のれん)を飜しているのでもある。人家の灯で案外明いが、人通りはない。」(野口冨士雄編『荷風随筆集』より『寺じまの記』岩波文庫)
震災で眺めが一変する
「隅田川両岸の眺めがむかしとは全然変わってしまったのは、大正十二年九月震災の火で東京の市街が焼払われてから後の事で、それまでは向嶋にも土手があって、どうにか昔の絵に見るような景色を見せていた。三囲稲荷の鳥居が遠くからも望まれる土手の上から斜めに水際に下ると竹屋の渡しと呼ばれた渡場の桟橋が浮いていて、浅草の方へ行く人を今戸の河岸へ渡していた。渡場はここばかりでなく、枕橋の二ツ並んでいるあたりからも、花川戸の岸へ渡る船があったが、震災後河岸通(かしどおり)の人家が一体に取払われて今見るような公園になってから言問橋が架けられて、これは今戸へ通う渡しと共に廃止された。」
「向嶋の堤防はこの辺までも平に地ならしされて、同じように自動車やトラックの疾走する処にしている。百花園は白鬚神社の背後にあるが、貧し気な裏町の小道を辿って、わざわざ見に行くにも及ばぬであろう。むかし土手の下にささやかな門をひかえた長命寺の堂宇も今はセメント造の小家となり、境内の石碑は一ッ残らず取除かれてしまい、牛の御前の社殿は言問橋の袂に移されて人目にはつかない。かくの如く向嶋の土手とその下にあった建物や人家が取払われて、その跡が現在見るような、向嶋公園と呼ばれる平坦な空地になったのだった。」(野口冨士雄編『荷風随筆集』より『水のながれ』岩波文庫)
団子、桜餅、桜味噌、しる粉
「自分たちが子供の頃、花見は上野と隅田堤に限ったもので、小金井とか荒川など噺にもならなかった。今の待乳(まつち)のの渡(わたし)を竹屋の渡(わたし)といった。竹屋とは船宿の名であって、堤で竹屋とどなると、今戸の向岸でチョキ船をしたてて至極長閑に迎えに来たものだ。今の三囲(みめぐり)の堤からは田圃で、鳥居の上の方には、花見だけ茶屋が出来、三囲の境内には絶えずいて、うで卵、くわいの色づけ、団子などを焼いていた。とにかく枕橋を越えると向島は田舎のよう、団子を横食(よこぐい)にしても可笑しくない葛飾の隅田の堤だった。三味線なども上野は許されていた。何といっても悠長なもので父椿岳が明治十七年にこの今の梵雲庵(ぼんうんあん)に超してきた頃には、弘福寺の本堂に狸が住んでいたのだ。向島の秋葉神社の境内なども、花見の頃には賑わい、秋も紅葉の名所だった。
椿岳がここで易をしていた。父の留守に渡しを見てくれとて老婆がやって来た。それは向島の堤に春から葭簀茶屋(よしずぢゃや)を出そうという見込みだった。私は見てやろうといって、これは駄目だ今年は雨が多いといったら、案の如く雨が多かった事を覚えている。堤で名物なのは言問の団子、長命寺の中にある言問より古い桜餅、何時か絶えた桜味噌という名物もあったが、天保頃に絶え、待ちには残っているようだから、明治二十三年頃に私はここで桜味噌を売ろうとして、容器の瓶まで購うて仕度した。そのレッテルの版木もまだ残っている。また明治以前に芳幾が牛の御前の前で、しる粉屋をやった事もあった。(大正七年三月『大供』第二号より)」(淡島寒月著「梵雲庵雑話」岩波文庫)