旧第一吾嬬小学校沿革
更新日:2011年4月1日
元号(西暦) 児童数(人) できごと
明治20(1887)
吾嬬村大字小村井に、「城所景定(きどころかげさだ)」が「吾嬬学館」という塾を開いたのが本校の始まりとなる。
明治24(1891) 35人
「吾嬬村立尋常小学校」として開設される。教員1名、児童数35名。4年生までの尋常科として発足する。初代校長 島田嘉行
第2回卒業生による絵
明治26(1893)
第二吾嬬小学校ができたため、校名を「第一吾嬬尋常小学校」に変更する。
明治35(1902)
香取神社に校舎を増築。二年制の高等科が併設され、尋常科2学級、高等科1学級となる。
明治36(1903) 200人
尋常科は6年制となり、2学級となる。
明治37(1904)
亀戸線開通。高等科が修業年4か年程度に改められ、尋常科2学級、高等科2学級となる。
明治38(1905)
明治38年卒業写真
明治39(1906) 206人
児童数206名が在籍する。
明治41(1908) 233人
校舎745坪が建て増しされ、教室数は5となる。
明治42(1909) 243人
尋常科の修業年限を6か年、高等科を2か年と改め、尋常科4学級、高等科1学級とする。
大正元(1912)
第一吾嬬実業補修学校を付設する。
大正2(1913) 350人
現在の東吾嬬小学校の場所に、3年計画で一部を移転する。教室数7となる。
大正3(1914)
大正3年3月卒業記念
大正4(1915)
校舎工事落成
大正6(1917)
風雨により、西側平屋建て校舎が倒壊、2階建て校舎も傾く。
大正7(1918)
第一吾嬬尋常夜学級を付設した。校舎の復旧および増築工事落成、移転する。
大正7年3月卒業記念写真
大正12(1923)
関東大地震のため、校舎東西の棟が傾斜。3本の支柱で起こし、修復する。
大正14(1925) 1160人もしくは1610人 ※資料により児童数が違うため併記
児童数急増、19教室、体操場を増築。
昭和3(1928)
亀戸線が電化、平井街道駅ができる。
昭和3年頃の校舎
昭和3年の頃の校舎
池のように見えるのは、学校の前の蓮田です。
昭和5(1930)
高等科を分離して、「第一吾嬬尋常小学校」となる。荒川放水路完成。
昭和7(1932)
学級数が45になり、第3学年まで、二部授業を行う。市・郡の合併、新町名となり、「東京市第一吾嬬尋常小学校」となる。新築の南側新校舎が暴風雨のため倒壊する。
昭和8(1933) 2904人
南側新校舎の増築が落成する。児童数2904名となり、在籍児童数の最高を記録する。
昭和8年増築校舎
昭和10(1935)
昭和10年のひとクラス66人のクラス写真。
昭和11(1936)
昭和11年運動会
写真は現在の東吾嬬小学校の場所にあった「東京市立第一吾嬬尋常小学校」
北側校舎を改築、普通教室5、理科室、裁縫室、教員室、応接室、使丁室各1、以後、本校舎を本館と呼ぶ。
昭和14(1939) 1420人
橘尋常小学校が新設され、教職員9名、児童数813名が転校する。学級数30、教職員35名となる。
昭和15(1940)
開校50周年記念の式が行われる。
昭和16(1941)
国民学校令により、「東京府東京市第一吾嬬国民学校」とかわる。校旗、校歌を制定する。校歌作詞 薄井晴雄 作曲 保田 正
昭和18(1943)
東京都制施行により、「東京都第一吾嬬国民学校」とかわる。
昭和19(1944) 1011人
寺田屋寮男組
寺田屋寮女組
児童500名、派遣教員15名が、茨城県久慈郡大子町及び、宮川村に集団疎開する。
大子町は7学寮、児童357名、宮川町は3学寮、児童52名。
昭和20(1945)
茨城県久慈郡大子町へ疎開(昭和20年1月)
大空襲により、校舎全焼。残留児童212名は、第四吾嬬国民学校で授業を受ける。秋田県秋田郡五城目町に再疎開。3学寮に児童136名、教職員10名。
昭和21(1946) 236人
昭和21年3月 全疎開引揚児童及び職員
戦後第1回卒業生
集団疎開児童・職員が引き揚げる。橘国民学校・請地国民学校・中川国民学校が廃校となる。第四吾嬬小学校の校舎3教室を借り受け、独立校として授業を始める。
昭和22(1947)
現在地(旧橘小学校跡地)に平屋建て6教室ができ、第四吾嬬小学校より移転する。校名を「第一吾嬬小学校」と改める。学制改革により、六・三・三制が施行され、9か年の義務教育となる。
昭和23(1948) 746人
全学年二部授業を行う。学級数16。追って平屋建て2教室ができ、普通教室が8教室となる。5年生以下は二部授業。
昭和24(1949) 891人
平屋建て3教室ができ、普通教室が10教室となる。学級数19
昭和25(1950) 1293人
平屋建て4教室ができる。4年生以下は二部授業。24学級。東京都がパン・ミルクなどの完全給食を始める。
昭和26(1951) 914人
昭和26年運動会
中川小学校が新設され、児童548名と職員6名が転校する。1・2年生は二部授業。18学級。開校60周年記念の式を行う。新しい校歌ができる。作詞:小川 浩 作曲:細谷 一郎(茨城県石岡市立国府中学校のページに詳しく載っています)
昭和27(1952) 979人もしくは939人 ※資料により児童数が違うため併記
2階建て4教室ができる。本校後援会は解散、新たに第一吾嬬小学校父母と先生の会(PTA)が発足。学級数18
昭和28(1953) 1100人
昭和28年給食
1〜3年生は二部授業を行う。学級数20
昭和29(1954) 1237人
運動会(昭和29年)
運動会(昭和29年)
木造校舎4教室を取り壊し、2階建て8教室ができる。
昭和30(1955) 1401人
木造平屋建て校舎2教室を取り壊し、2階建て4教室ができる。1・2年生は二部授業を行う。初めての夏季林間学校開設(山梨県昇仙峡)。学級数28
昭和31(1956) 1005人
東吾嬬小学校と、西吾嬬小学校が新設される。322名が東吾嬬小学校へ、73名が西吾嬬小学校へ転校する。二部授業が戦後初めて解消される。21学級。開校65周年記念の式を行う。
昭和32(1957) 1009人
鉄筋3階建(1期分6教室)の工事が始まる。学級数20
昭和33(1958) 1105人
東側旧校舎を鉄筋3階建てに改築(2期分)するため、2・3年は二部授業を行う。1期分・2期分完成。12教室の落成記念式、祝賀会を行う。
昭和34(1959) 1123人
学級数23
昭和35(1960) 1104人
学級数23
昭和36(1961) 1065人
給食室改築、屋内運動場の建設を始める。
昭和37(1962) 974人
昭和37年「とくいの剣道」
体育館ができる。体育施設(すべり台・低鉄棒・ジャングルジム・雲梯・肋木・砂場)が設置される。開校70周年記念の式を行う。学級数22
昭和38(1963) 942人
親子テレビが全教室に入る。土曜・日曜曜日の校庭開放が始まる。
昭和39(1964) 896人
プールが完成する。学級数22
昭和40(1965) 869人
講堂への渡り廊下等改装工事終了。
昭和41(1966) 811人
体育の授業
社会科 地球儀をながめて
鉄筋校舎改築工事が始まる。
昭和42(1967) 785人
鉄筋新校舎ができる。普通教室6、特別教室5。開校75周年記念の式が行われる。
昭和43(1968) 779人
改築前の西校舎
校門前押しボタン式信号機完成。学級数20
昭和44(1969) 769人
昭和44年西校舎改修工事
鉄筋校舎3階建て11教室の改築工事が始まる。このため教室としてプレハブ校舎がつくられる。
昭和45(1970) 740人
巣立ちいく卒業生
鉄筋3階建て新校舎ができる。
昭和46(1971) 682人
80周年校舎全景
開校80周年記念並びに新校舎落成記念の式が行われる。校章を玄関上に設置。学級数18
昭和47(1972) 659人
なつかしいトロリーバス
「福神橋」停車場 都電は昭和47年に廃止
昭和48(1973) 629人
昭和48年校舎全景
東校舎側の緑化工事が完成する。
昭和49(1974) 602人
立花団地ができ、立花小学校がつくられる。113名の児童が転校。
昭和50(1975) 433人
玄関地盤沈下のための改修工事などが行われる。学級数13
昭和51(1976) 492人
85周年運動会
拡張校地に花壇新設。開校85周年記念の式が行われる。丸八通り開通。学級数14
昭和52(1977) 511人
32年ぶり卒業式
昭和20年3月は戦災で卒業式ができなかったため、3月27日、32年ぶりに53期生の卒業式が行われる。校庭岩石園がつくられる。
昭和53(1978) 514人
校庭舗装(アスコン舗装)完了。あわの移動教室実施。学級数14
昭和54(1979) 528人
学級数14
昭和55(1980) 517人
昭和55年校舎全景
東あずま公園ができる。 飼育小屋新設。学級数16
昭和56(1981) 530人
90周年運動会
開校90周年記 念式・祝賀会・記念運動会・記念学芸会が行われる。学級数16
昭和57(1982) 483人
学級数15
昭和58(1983) 461人
サンタウン立花ができる。会議室にクーラー設置。学級数15
昭和59(1984) 449人
学級数14
昭和60(1985) 398人
学級数12
昭和61(1986) 387人
中小企業センターができる。開校95周年記念式典を行う。池の補修・理科室の改修が行われる。学級数12
昭和62(1987) 354人
オープンルーム改修。学級数12
昭和63(1988) 346人
戦災のためできなかった橘国民学校の昭和19・20年の卒業式が43年ぶりに行われる。学級数11
平成元(1989) 322人
体育館・プール・校舎改築のための調査が行われる。学級数11
平成2(1990) 297人もしくは294人 ※資料により児童数が違うため併記
学級数11
平成3(1991) 285人
平成3年校舎全景
体育館・プールをこわし、改修工事が始まる。管理室、音楽室にクーラー設置。
平成4(1992) 250人
平成4年青空入学式
入学式が青空の下で行われる。学級数10、児童数250名。
平成5(1993) 244人
平成5年校舎全景
体育館・プール・校舎が完成する。開校100周年及び体育館等落成記念の式が行われる。
平成6(1994) 235人
雨水天水尊・陶芸窯が設置される。
平成7(1995) 240人
校庭や花壇が整備される。流水実験園ができる。
平成8(1996) 226人
開校105周年記念式典が行われる。
平成9(1997) 234人
生ゴミ処理機・機械警備設備が設置される。
平成10(1998) 218人
平成11(1999) 205人
コンピュータルームが設置される。
平成12(2000) 196人
たちばなホーム訪問
6年生が特別養護老人ホーム「たちばなホーム」を訪問し、ソーラン節を披露した。
平成13(2001) 206人
日本宇宙少年団墨田分団の入団説明会が行われる。
開校110周年記念式典が行われる。
平成14(2002) 211人
墨田区出身、巨人の高橋尚成投手と水野雄仁元コーチによる「夢の課外授業」が行われる。
記念撮影
平成15(2003) 216人
平成16(2004) 231人
ランチルームが設置される。旧校舎に算数室設置。
平成17(2005) 269人
新しいコンピュータが入る。相談室設置。旧校舎2教室3年生が使用。
平成18(2006) 299人
旧校舎3教室5・6年生が使用。115周年記念式典が行われる。
平成19(2007) 308人
閉校式が行われる。