学校の歴史
更新日:2011年4月1日
明治35年12月20日、本所区中ノ郷横川58番地(現墨田区東駒形4丁目18番4号)に、本所区で9番目の学校として横川尋常小学校の設立が認可され、翌年の明治36年6月4日、児童数129名で開校する。
本校の学区域は、江戸時代からの庶民気質を残し伝える街中にある。東京市横川尋常小学校、東京市本所区横川尋常高等小学校、東京市本所区横川尋常小学校、東京市横川国民学校と社会情勢による校名の変更はあったが、「教育を受ける児童が、本来持っている個性・能力を大切にし児童に知識を教えるよりも、むしろ、児童が知識内容を意欲的に学び取る探求の方法を学び取らせることが教育である」という『動的教育法』への取り組みで培ってきた「為すことによって学ぶ」体験的な活動や問題解決型の活動に力を入れ、実践力のある子どもたちに育てようと努力を積み重ねてきた。
大正12年9月1日に起きた関東大震災は、校舎を全焼させ、天幕(テント)や露天、仮校舎で授業を行わなければならなかった。待ちに待った鉄筋3階建ての新校舎が昭和4年12月20日に完成するが、その校舎も昭和20年3月10日の東京大空襲により被災し、翌年の昭和21年3月31日本校は廃校となってしまった。そのため、子どもたちは、区内近接の業平、外手、小梅小学校に別れて学ぶことになった。
それから9年、横川の地域の子どもの数も増え、「是非、同じ横川で学ばせたい」という地域、保護者、卒業生の熱い思い入れと行政の支援により昭和30年4月1日に東京都墨田区立横川小学校として復活再校された。その時の児童数は、989名。
明治36年の開校。子どもたちの中には、四世代とも本校で学ぶ家庭があるなど、地域・保護者・卒業生から多くの支援・協力をいただいている。最近は「子どもの数より大人の方が多くて」と話す町会長の言葉にもあるように、各町会とも少子化、高齢化による問題等を抱えているが、「子どもたちの育ちに必要なことはできる限りするから」、「学区域外から横川に通う子どもも、うちの子供会の子と同じに見ていくから」と応援してくれている。PTA・子供会・地域町会が連携を取り合って協力してくれている。