言問小の周りの史跡
更新日:2011年4月1日
言問小の近くには、みんなの遊び場である公園や、神社、お寺など、昔の町の様子を伝えて いるものがたくさんあります。そのうちのいくつかを紹介します。
1 秋葉神社(向島四丁目)
正応二年(1289年)に、与右衛門(よえもん)という人が、自分の屋敷の中にお稲荷様をまつったのが、神社の始まりです。このあたりを千 代世(ちよせ)の森と呼んてたことから「千代世稲荷大明神」と言われていました。その後、江戸時代の初めに善財(ぜんざい)という霊僧が、 秋葉大神の神影をここに納めたことがきっかけになり、秋葉神社となり ました。 戦前は、今は交番が建っている辺りに参道の入り口があり、大きな イチョウの木や赤い鳥居が立っていました。都電やバスの終点になっていて、たくさんの人がお参りにきました。今でも火事を防いでくれる神 様として、11月18日の鎮火祭には多くの人がお札をもらいに来ます。
2 長命寺(向島五丁目)
もとは、宝寿山常泉寺と呼ばれてました。鷹狩に来た三代将軍徳川家 光(いえみつ)が腹痛をおこしたとき、この寺の井戸水で薬を飲んだところ、たちまち治ったので、「長命寺」と名前をかえられたそうです。「長命寺の桜餅」は、今から250年ほど前、山本新六という人が売り始めました。皮が薄く、塩漬けの桜の葉で包まれた桜餅は、向島の桜が有名になると、名物として地図に名前がのるほど人気を集めました。長命寺には、隅田川七福神の一人、弁財天がまつられています。今のご住職は幼稚園を経営していて、言問小にも卒園生が来ています。
3 弘福寺(向島五丁目)
長命寺の隣にあります。延宝二年(1674年)に鉄牛によって創建されました。黄檗(おうばく)宗という、中国から伝わった禅宗のお寺です。..
隅田川七福神の一人である、布袋様をまつっています。布袋様は、 七福神の中でただ一人、本当にいた人をもとにした神様です。 幕末の幕府の役人、勝海舟が子どものころ修行していた寺としても有 名です。勝は咸臨(かんりん)丸で福沢諭吉らとともにアメリカに行った り、西郷隆盛と会談して江戸城の明け渡しを決めたりした人です。
4 牛島神社(向島一丁目)
向島にある神社やお寺の中では最も古く、貞観二年(860年)、慈覚大師によって建てられました。そのころは今の弘福寺のあたりにあり ましたが、隅田公園が作られるとき、今の場所に移されました。
境内にある「なで牛」は、自分の身体の悪いところをなでた後、牛の 同じ部分をなでると病気が治るとされ、たくさんの人がお参りします。
牛島神社のお祭りはとてもにぎやかです。五年に一度の大祭の時は 牛が御本社の鳳輦(ほうれん〜屋根に鳳凰を乗せた山車のような乗り 物)を引き、氏子(うじこ)である50ほどの町会を二日間かけて歩きま す。行列には昔ふうの格好をした人や、地域の人も加わります。
次の日には、「宮入り道中」があります。向島から両国まで、各町会 のお神輿が40騎以上も集まります。 大きな通りに並んだお神輿が、 時間をずらして、順に出発していきます。いせいのよいかけ声とともに 牛島神社の境内に入ったお神輿は、勢いよく何度も持ち上げられ、 神社にお参りした後、おはらいを受けて帰ります。 大祭でないときも、 夜店がたくさん並び、このあたりではもっとも大きなお祭りです。
5 飛木稲荷神社(押上二丁目)
今から五百年ほど昔、風で飛ばされてきたイチョウの木の枝がここにささり、そこから根が出て木に育ったことが、神社の始まりとなりました。「飛木」という名前もこの言い伝えからつけられたそうです。
境内にあるイチョウの木は、墨田区内で一番太い木と言われ、高さ 15メートル、太さは5メートルほどあります。神社の横には神様の使い とされるきつねの彫刻があります。
6 向島百花園(東向島三丁目)
文化元年(1804年)に、佐原鞠塢(さはらきくう)が開いた庭園で、梅や萩など、一年を通して、三百種類以上の花々が楽しめます。八月 の終わりには秋の虫の声を聞く虫聞きの会、九月には中秋の名月を 見る月見の会があります。
秋には、萩の木のトンネルが見ごろになります。
7 路地尊(向島五丁目他)
言問小の周りの小さな道沿いに、下のようなポンプがいくつかあります。これは路地尊と呼ばれる施設で、この下には、雨水をためておくタンクがあります。道幅が狭く、消防車が簡単に入れない路地の多い町を、火事から守るため、十年ぐらい前から作られました。
名前は、地域の広場となる路地を尊ぼうと言うことでつけられたそうです。
8 鴻月の羽子板(向島五丁目)
言問小の近くにある「押絵羽子板」を作っているお店です。羽子板は古くから縁起がいい物と言われ、遊びに使う他に、かざりと して使われました。押絵羽子板は、江戸時代から作られるようになり、 歌舞伎役者のすがたを華やかに写し取ることで大変な人気をよびま した。布や和紙を使い、板の上に本物の人間のように見える絵を作り 出すやり方は、江戸時代からほとんど変わっていません。ひとつひとつ が手作りです。十二月に、浅草で開かれる「羽子板市」には、たくさんの羽子板が並びます。流行しているドラマや、有名人の似顔絵の羽子 板もあり、とても楽しい市です。
9 さくらんぼ公園(向島五丁目)
昭和45年(1970年)に、整備された公園です。桜の名所の隅田川に 近いことから、「さくらんぼ公園」と名づけられました。 名前とはちがい、さくらんぼができる木(黄桃といい、桜の木とはちがう)はありませんでしたが、遊びにきた小さな子の一言がきっかけとなり、 さくらんぼの木が植えられました。今では、たくさんの実がなるようになりさくらんぼ取りの行事が行われます。
隅田川の七福神
江戸時代に百花園に集まった人たちが、お正月の楽しみに七福神をまわることを思いつき、近くのお寺を調べて七人の神様を集めました。これが「隅田川七福 神めぐり」の始まりです。
今でもお正月の七日間は、とてもたくさんの人でにぎわいます。お参りの順番は次の通りです。
(1)三囲神社(大黒神・恵比須神)→(2)弘福寺(布袋尊)→(3)長命寺(弁財天)→(4)百花園(福禄寿)→
(5)白鬚神社(寿老人)→(6)多聞寺(毘沙門天)
隅田川花火大会
享保十六年(1731年)江戸ではコレラという伝染病が流行し、多くの人が死にました。またこの年は全国的にお米がとれず、人々は飢えに苦しみました。 八代将軍徳川吉宗(よしむね)は、死んだ人をなぐさめるとともに、これ以上悪いことが続かないよう願い、享保十八年の水神祭のときに、打ち上げ花火を上げました。これが隅田川花火の始まりです。
花火は両国橋のあたりであげられていました。しかし、家が建て込んできたことや、川の汚れのため、しばらく行われなかったときもありました。今は、毎年七月の終わりに開かれ、約二万発の花火が打ち上げられます。会場の一つが、桜橋のあたりに移ったので、言問小の学区域からもよく見えます。